2月10日(土)・11日(日)は滋賀県にいらっしゃる木工作家さんの元で研究会がありました。
その模様はブログに書くことができませんが、とても充実して楽しいものでした。
初日は午後の集合だったために、朝、少し早くに家を出て、午前中に寄り道として名所を巡ってきました。
時間的な制約もあるので、比叡山延暦寺と日吉大社だけになりましたが、その模様を備忘録もかねて綴ります。
・・・と、いっちょ前に行っていますが、もう3月、投稿するの遅いよ…。いくら確定申告があったからとはいえ。
なお、去年の奈良の旅も長くなって投稿数が増えたので、「ぶらり旅」カテゴリーを作りました。
ヘッダー(この画面の情報にある帯)から過去の記事に行けるようにしましたのでよろしくです。
話しは戻って、比叡山に上るにはいくつかルートがありますが、今回は(といっても私は初めて上るのだけれど)坂本から上ることにしました。
趣のある駅舎。ケーブル坂本駅です。大正時代の木造建築で、国の登録有形文化財に指定されています。
ちなみに、この路線は正確には京阪グループの比叡山鉄道比叡山鉄道線(坂本ケーブル)です。
山の向こうの出町柳から八瀬比叡山口・鞍馬路線は叡山電鉄で、京阪ホールディングスのHPによるとそちらは運輸業、こちらの比叡山鉄道はレジャー・サービス業に位置付けられています・・・なんで?
坂本ケーブルは本線のみで支線はありませんが、話は横道にそれました。
大正ロマンというよりも、どちらかというと昭和のまだ需要があった田舎駅のような待合があり(時期柄、ストーブが中央に置かれ長椅子が取り囲んでいた)、それを抜けるとホームです。
比較的緩い勾配(160‰だそうな)に車両が止まっています。
出発するといくらか勾配はきつくなり、階段状の座席がちょうどよくなります。
当然のことながら、1両編成で動力があるわけでもなく、架線もない、速度もさほど出ないので、車輪とレールの単純な摩擦音だけが深い谷に響きます。
2つの車両が行ったり来たりで、真ん中ですれ違い。
車内はレトロな感じですが、外観はアグレッシブな感じでどこかのサッカーチームのユニホームみたい。
終点のケーブル延暦寺駅に到着。
こちらも登録文化財。どちらかというとこちらの方がヨーロッパチックで大正ロマンなのですが、逆光のためにうまく引きで写真を撮ることができませんでした(この写真を撮ったのは帰りで11時くらい)。
「のどか」という言葉がぴったりと当てはまる坂本ケーブルですが、太平洋戦争末期には暗い歴史を歩みました(比叡山坂本ケーブルHPhttps://www.sakamoto-cable.jp/)。
当地は人間ロケット「桜花」の発射基地となったのです。
カタパルトで射出して飛行、標的に向かう特攻作戦でした。
この時に使われる桜花は航続距離を伸ばしたどちらかというとロケットよりは飛行機に近いものだったようですが(wikipedia『桜花(航空機)』https://ja.wikipedia.org/wiki/桜花(航空機))、素人ながら作戦としては末期的と思われる…。
おそらく、比叡山が選ばれたのは大阪湾や伊勢湾の防衛、地上戦になった場合の大阪・京都・名古屋の防衛、航空機並びに資材の陸・湖上輸送(琵琶湖周辺は平坦な土地が多い)、既存の坂本ケーブルが利用できることなどが挙げられるでしょう。
戦争の悲劇として話しを書くことは省きますが、文化的な面でのみ思うところを。
選定の理由には、比叡山延暦寺という宗教・文化施設を「隠れ蓑」にして軍事基地化する意図も十分にあったでしょう。
換言すれば、国民国家が戦争を行う場合には、これまで培ってきた文化遺産さえも取り込み、たやすく利用してしまうとも言えます。
使われる前に終戦を迎えたため、幸いに基地は実戦で用いられることはなく、比叡山自体も戦火は免れました。しかし、まあ、何というか…。
・・・話題を戻しましょう。
駅の屋上は展望台になっていて琵琶湖が見渡せます。とてもよいお天気で対岸までくっきりです。
歩いて10分ほどで延暦寺。
言わずと知れた世界遺産(古都京都の文化財)ですが、ここは滋賀県大津市です、みなさん忘れずに。
ちなみに、この入り口から入って最初にある建物(受付は除く)はこの比叡山の消防団の建屋でポンプ車がありました。
・・・飾らない寺院、延暦寺。
それにしても、初日とはいえ三連休なのにあまり観光客はいません。おかげで、山の雰囲気そのものが厳かです。
さてさて、今回は始めからメインの根本中堂に行ってみましょう。
・・・って、修復中じゃん(調べて行けよ)。敷地目一杯の立派な素屋根。
工事はだいぶ終わっていて、屋根の吹き替えもほとんど済んでいるようでした。
素屋根の中には本堂と廻廊の間に見学のためのステージがあり、写真も撮影可能です。
鉄骨の間から見えるでしょうか?
真新しい本堂の銅板葺はまだ緑青を吹いていません。ピカピカです。
一方で、廻廊の屋根は栩葺(とちぶき)。規則正しく葺かれた板(椹(さわら)だそうな)が美しいです(ちなみに、栩葺という名前は今回初めて知りました。柿葺とは違うのですね、板の厚みと屋根としてのグレードが)。
・・・写真が近すぎて、なんだかわかりませんね。
近づいて見てみましたが、当然ながら、とっても良い椹を使っていました。
昔は本堂も栩葺きだったそうです(寛政年間に変わった)。
延暦寺は瓦葺ではなかったのですね。一般に瓦葺は近代以前、凍害に弱いとされていますので、比叡山では用いなかったということでしょうか。
それとも、延暦寺ほどの寺格、古式にのっとることが重要とされたのでしょうか。
延暦寺の境内は起伏が大きく、根本中堂から恐ろしい傾斜の階段を上ると文殊楼があります。
文殊楼は延暦寺の総門にあたる建物であったようです(『文化遺産オンライン』
総門であるならば、だいぶ小ぶりな感じがします。それと、江戸時代初期にしては装飾もだいぶ抑え気味の感があります。
延暦寺は修復や普請が結構盛んなようで、鐘楼↓は塗り直したばかりでした。
これだけ鮮やかな朱色を基調にし、さらには木口に白を配していると、垂木や組物、木鼻といったディテールがこれでもかと強調されます。
・・・周囲の植林とはとても対照的な人工物。
しかし、これが仏教建築の本来で、最澄の頃とは言いませんが、寺勢豪然たる時世の姿と思っていいのでしょう。
さらに起伏のある道を歩いて戒壇院↓
こちらは建物の色がだいぶ落ち着いてきています。塗り直してからいくらか時間がたったのでしょう。
上層正面の唐破風がちょっと不思議な感じ。
上の屋根は横方向の反りが大きく、全体にわたっているのに対し、下層の屋根は四方を除き極めて直線的な印象を受けます。
言うまでもなく、こちらも江戸初期の建築で線が細いです。それにしても、文殊楼といい、花頭窓大好きだなぁ。
戒壇院ということで、いわゆる本山が最も大切にする施設です。
すなわち、戒律を守ることを誓うところ。宣誓するところ。見方を変えれば、戒律を授けるところ。認許するところ。
殊に、天台宗の平安時代の隆盛を考えれば、多くの僧侶がここで(建物は後世のものにしろ)その精神的結びつきを強めたことでしょう。
リズムのある桟で組まれた桟唐戸。戸はこのように飾金具で装飾されるのですね。
また長押と藁座による開き戸の構造もよくわかりますし、黒での塗装、面取り部にさし色の朱と心憎いです。何となく根来っぽい。
東塔・阿弥陀堂をさっらっと眺め(←近代に作られた建築はいつもこんな感じ)、東塔地域を後にし、遊歩道というか「本来の道」を歩いて西塔地域に向かいます。
その道中にあるのが浄土院↓
植林の中に緊張感を持って凛と佇む建物です。
言うまでもありませんが、侍真と呼ばれる僧侶が今も伝教大師にお仕えし、食事や火を絶やしません。
清浄の空気は多くの献身が引き継がれた悠久の時によるものでしょう。
西塔地域はさらに人影がなく、静謐と呼ぶにふさわしい雰囲気でした。
常行堂と法華堂、二つ併せて通称「にない堂」。
左↑が常行堂で右↓が法華堂
鏡に映したかのような同じ造りの建物で、渡り廊下で繋がれています。
文禄年間の再建であるようで、東塔地域で見てきたものよりも質素な感じがしますが、それでも精巧な作りです。
珍しい方形の大きな建物。半蔀の連子が林立する木々と調和して縦方向が強調されるため、一辺5間と扁平して重たくなりそうなものですが実に軽やかです。
ただ、ちょっと、(拝所と呼んでいいのかな?)入口のいわゆる庇が重たそうかな。
次の大きな建物は転法輪堂、いわゆる釈迦堂。西塔ではここが本堂と見なされています。
先日降った雪をかき除けたのでしょう、参道の両側には僅かですが白いものが残っています。
林がすぐ傍まで迫っているので、この大きな建物がやや窮屈に見えます。
園城寺の金堂を文禄年間に移築したもので、造営は十四世紀中ごろ、南北朝期であるそうな。
建物に歴史あり。木造建築は移築が可能なので、このように「どこそこにあったもの」という建物に出会います。
それにしても何回も焼かれた仇に対して金堂を「はい、どうぞ」と供出せよとはよほどのこと。
織豊政権に限りませんが、武家の宗教政策もなかなか興味深いものです。
園城寺時代とは変わっているかもしれませんが、屋根のこれでもかという反りをこの比叡山の地で見た寺門派の僧は悔しかっただろうなぁ。
この先の横川地域まで行けるほどの時間的余裕はありません。
なので、もと来た道を戻ります。
道(←「遊歩道」というのはねえ・・・)は整備されていたり、されていなかったりです。
まあ、ここは公的施設やレジャーランドではなく、仏道に精進するところですね。
起伏があり曲がりくねっているので、この山道をトレッキングする人も多いようです。
運動不足の私は、自身が履いている安物のスニーカーと一緒に壊れてしまわないか心配になるくらいでした。
・・・千日回峰行なんて、とても考えられないです。
ところで、ちょっと疑問。
このように数多の堂宇が長身の緑林に埋もれて佇むのも趣があるものですが、樹木のほとんどが杉です。
東塔から西塔へ至る道中もほとんどが杉で、40年生から80年生が大半といったところのようです。
これはどのように考えたらよいのでしょうか?
比叡山は戦後植林最盛期に、しかも桧ではなく比較的廉価で木材として劣る杉を植えたということでしょうか。
杉の樹形は縦方向に清々しく、桧よりも樹皮は力強く見えます。
う~ん、雰囲気を重視して杉を植えたと考えたいところです。
さらに、この杉林以前の、つまり、戦前や近代以前の植生はどのようなものだったのでしょうか。
つまり、今、目にしているこの光景はつい最近のものだということです。
もし、延暦寺周辺の木々が不輸不入、伐らずの森だとしたら現在もそれが受け継がれているでしょう。
修復などの普請に用い、100年くらいで更新していくのであれば、やはり桧の方が好ましいですし、樹齢も区画ごとに分けれているはずです。
そうなると、生活用の木々(薪炭)に使われて更新されていたと考えるのがいいのかな?
とするならば、燃料革命までは樹齢の若い雑木林だったことになる・・・。
坂本ケーブルに乗ったときに見えた谷は深く、そこには人の手がほとんど加わっていない樅かな?(ただし、景観向上や災害対策のためか強く剪定してあった)がある程度まとまって生えていました。
こちらの方が本来の寺域にはふさわしいような。
坂本ケーブルは延暦寺に影響がないところに作られたとされているので、おそらく地権者も異なると思いますが、40年くらい放置された雑木林、いわゆる里山も多くありました。
深山幽谷といえば、我々がイメージするものはどうしても一面的で、ややもすると杉の植林になってしまいます。
しかし、植物の生態とそれに関わる人の営みはもっと多様ですよね。
そんなことを考えながら坂本ケーブルで山を下りました。
1日あれば「山門寺門」と園城寺にも行きたかったのですが、時間が「押すなよ、押すなよ」としているので、麓の日吉大社へ。その模様はまた別稿・・・