山乃井木工房:岩井雄介のいま何作ってましたっけ

京都丹波(京丹波町)の山村で木工をするあるつくり手の備忘録

ぶらり奈良の旅 ~その2~

12月になってしまい、だいぶ「炭酸が抜けた感」がありますが、引き続いて、11月14日(火)に行ってきた奈良の旅の続き記事です。

薬師寺へは唐招提寺から歩いて行ったので、北から入りました。

なので「裏口入学かなぁ」と思いましたが、いやいや、最寄り駅からだとこちらから入ることになるためか、北門にあたる興楽門も立派ですし、受付も立派でした。さすがは薬師寺さんです。

その入り口の少し手前に、薬師寺伽藍建設のための作業場と資材倉庫がありました。

もちろん、入るわけにはいかないのです(不法侵入じゃ)が、建設を進めるための木材などが置いてあるようで、この寺の再建に向ける熱意を感じました。

往時の姿に戻すため、古式にのっとり積極的に普請を進めることはなかなか他所ではできないことでしょうし、門外漢ですが頭が下がる思いです。

言わずと知れた薬師寺西塔。裳階のついた三重塔です。

各層の屋根は軒の出が大きいのですが、裳階があることで見かけ上の不安定さを軽減し、且つ各層が逆三角形になることで、天に伸びる塔として指向性だけではなく地に対する尖鋭性も感じ、縦方向に強い緊張感が漂います。

まさに「凍れる音楽」という表現に、私も多くの方々と共に首肯します。

事前勉強が足りなくて現場ではきちんと見れなかったのだけれど、手先が古い様式らしいのです(記事を書きながら図集の解説を読み返して気が付きました)。

この写真でもわかる通り、軒天井(軒裏の格子部分)が大きいのもその特徴だそうです。

ふ~む、なるほどね~。でも、組物の特徴の方はいまいち理解できていません。

しかし、まあ、このような奈良時代の「総合芸術」がよく生き残っててくれているものですよ。

それと同時に、特に塔は落雷の影響を受けやすいのに、昔の人々はより高く、そしてより緻密に作ろうと多くの年月と労力を注いだものです。

信仰心からくるものなのかもしれませんが、一心に傾注する姿勢は現代人も見習わなければいけません。

こちら、再建された西塔です。

全体の朱と垂木の鼻先の金が華やかな印象を与え、こちらは氷な感じはしません。むしろ暖かそうです。

古代、緑と土色ばっかりの世界(とは言いすぎか?)でこのような文字通りの極彩色な巨大建築物を見たら誰もがおったまげます。

飛鳥・奈良時代、都会、地方を問わず、寺や僧が文化の中心であったことが視覚的にもよくわかります。

てゆーかー、トレンドセンター的なぁー。

・・・朝早い時間だったためか、まだ修学旅行生もおらず、ゆったりと眺められました(薬師寺さんの学生に向けた法話は有名ですね)。

同じく復元された回廊から二つの塔を望みます。

薬師寺の伽藍配置はとても均整がとれていて美しいです(薬師寺式と言われて親しまれていますね)。

この(素人が撮った)写真でもお感じになる通り、塔自体の完成度が高いだけでなく、金堂、2つの塔、回廊が景観として間延びせずにすっきりと納まり、構想の段階からパースペクティブがよく練られていただろうことがわかります。

ええ、撮影者の腕の問題ではなくて被写体が良いのです。

また、これはおじさんが現代人だからかもしれませんが、この薬師寺の伽藍配置は畏敬の空間としてもとても効果的だと思います。

南大門を入る。さらに中門をくぐると左右に塔、正面には金堂。そんな場所で坊さんに法話でも話されたら畏れ入ってしまいます。

もしかすると、そう思ってしまうこと自体、「左右対称性を求める西洋的景観」「視覚的に目立つランドマークが空間設計の中心地」という価値観に毒されて、ある程度の色眼鏡で見ているのでしょうか。

ところで、この薬師寺(もっとも薬師寺は本薬師寺を「模」したもの)以降は塔が回廊の外に出てしまいますが、それはどうしてでしょうか?

別に「院」を持つような構図になったり、そもそも塔が一つだけで左右対称ではなかったり。

教科書的には「人が集まれる空間を伽藍の中央に造ったから」となるのでしょうが、それでは塔が追い出された理由とはなりません。だって、回廊を一回り大きくしたらいいじゃん。

それほどまでに落雷による火災が忌避されたのかなぁ。

こちら↑再建された大講堂です。青空に映える入母屋造が力強いです。ちなみに手前の「二層二重屋根」の金堂は写真を撮るのを忘れました。

仏旗(になるのかな?)が風に靡き、悠久とした時の流れを伽藍空間に感じます。

復元については、薬師寺の記述はないのですが、

海野聡 『古建築を復元する 過去と現在の架け橋』(歴史文化ライブラリー444) 吉川弘文館 2017年

が網羅的で文章も易しく読みやすいです。建築史学だけでなく博物館学的(←博物学ではなくてね)な視点からでも楽しめます。

回廊の外で地味な位置づけになってしまっていますが、東院堂も国宝指定です。

ちょっと時間が無くなってきたので、あまり細部まで見ることができませんでした。

鎌倉時代の後半に建てられたもので、木鼻などの大仏様の影響がみられるそうです。

こちら、中は土間ではなくて板張りになっています。禅堂ですが、残念ながら発心の気が全くない私は腰を下ろしませんでした…。

そして最後にポーズをとって「薬師寺東塔おっさん」を・・・やれるほどの元気もあるわけなく(そんな私でもエッフェル塔だったらやるかも)、南門へ。

こうして、だんだんと観光客が多くなってきた薬師寺を後にして、南へ向かって歩きました。

JRに乗らなければならなかったので、どこかで近鉄から乗り換えるよりも歩いて郡山駅まで向かうことにしたのです。

その途中にあるのが郡山城跡↓

郡山城とくれば、言わずと知れた大和大納言秀長。奈良時代から随分とタイムスリップしましたねぇ。

「兄じゃ~」という声が聞こえてくるのは某大河ドラマを見ていたからでしょうか?(←自分で言うのもなんだけど、古いっ)

奈良盆地のほぼ中央に位置し、在りし日の天守に登ると、きっと大和国の大方の寺社を一目に収めることができたでしょう。

逆に言えば、寺社勢力が強い大和を治めるのは相当の力量が必要とされたことでしょう。

豊臣秀長は兄をよく補佐し天下統一に大きく貢献したと言われますが、その思慮分別は政治や戦だけではなく、イエ(家)に対しても大きく表れていると思います。

いわゆる武家はどうしても元和偃武以降の江戸幕府のイメージに引っ張られ、「一族郎党内は穏やかに仲良く協力する」感じを抱いてしまいます(江戸時代の各藩だって内実わからないけど)が、戦国時代まではそうじゃねーだろ、てか。

う~ん、源頼朝と範頼・義経はもちろんだけど、この時代に近い時期で言えば思い起こされるのは足利尊氏・義詮と足利直義・直冬が争った観応の擾乱

天下をほぼ手中に収めた羽柴兄弟が室町幕府の草創期を思い起こさなかったはずはないと思います。

まあ、そうでなくとも応仁の乱以降は大名や国人内で兄弟で殺しあってしまうことはざらにあったし、「兄弟」というのは安心できる仲ではなかったんじゃないかなぁ。

「三本の矢」はどこまで真実かはわからないけど、両川体制として名高い毛利家も結局、他家を継がせることである意味、この問題を事前回避していたとも見えるけど。

全くの推量ですが、秀長も「兄弟の距離感」はずっと意識して行動を共にしてきたんだと思います。

豊臣家に関しては秀吉の立身出世が注目されるけど、秀次然りでそのイエ内の関係性もある意味で面白いですね。

秀長が亡くなったのは1591年。その翌年、ここから20㎞程北で伏見城の建築は始まったそうです。

郡山城天守からは伏見城は見えたのかなぁ?

晩年の秀長と彼の養子秀保(秀次の弟)はどういう気持ちでここから大坂や京を見ていたのでしょうか。

・・・と、長々書きましたが、時間がなくて城跡内には入れませんで石垣を見上げて脇を通っただけでした。

もうちょっと、名跡をゆっくり見れたらよかったのですが・・・。

郡山城から東に折れて、金魚のイラストがたくさん掲げてある商店街を通り、JR郡山駅に辿り着きました。

(次の投稿でようやく目的の法隆寺に到着します)