山乃井木工房:岩井雄介のいま何作ってましたっけ

京都丹波(京丹波町)の山村で木工をするあるつくり手の備忘録

ぶらり奈良の旅 ~その3~

11月14日(火)に奈良に行ってきた記事の続きです。

今年中に書き終わらせたい、書き終わらせねばならないところです。

ようやく法隆寺に着きました。

いやいや、法隆寺の最寄り駅での集合は11時くらいだったので、この日はまだ半日経っていません。

そうそう、単に記事にするのが遅かっただけです。

法隆寺の見学こそが奈良に来た目的だったのです。

某グループの諸先輩方と法隆寺内をボランティア解説を聴きながら巡るんだったのです。

上の写真は南大門、室町時代の作の八脚門だそうです。が、この後続く飛鳥時代の建物と比べて違和感がありません。

私がわかるところでは柱が細く見えることくらいですが、これが室町期には大径材が得づらかったため(もしくは遠方から運ぶ手間をかけなかったため)なのか、それとも単層のために「飛鳥時代風」でもこれくらいの太さで通っていたのか、どちらなんでしょうか?

専門的には細部はいろいろと時代の差があるのでしょうが、一見なじんでいる感じを見ると室町時代(かの武闘派将軍、足利義教の代だそうです。寄進だか成功だかは誰だか知らんけど)の人々も相当に創建当時の意匠を大切にしたのでしょう。

南大門の写真を持ってきてしまったのでその話題になってしまいましたが、まずは法隆寺の場所を確認しましょう。

・・・知っている人も多いとは思いますが、私は今回行くまで正確な場所がわからんかった。

斑鳩ってこんなに明日香から離れているのね。中学校の修学旅行でも行ったはずなのに…。

法隆寺のある斑鳩町は南北に長い奈良盆地の中央やや西より、生駒山地の出城っぽい松尾山の南麓で、大和川法隆寺の1キロほど南を西に流れています。

奈良盆地の水を集める大和川は現在、大阪市住之江区堺市堺区の境界となり大阪湾に注ぎますが、江戸時代以前は異なりました。

飛鳥・奈良時代上町台地の東を通り、淀川と最下流で合流して汽水域・デルタ地帯を作っていました。

ということは、奈良盆地から大和川を下ると難波宮のすぐ北側まで流れ着きます。

途中、亀の瀬と言われる渓谷がある(府県境あたり)ため、古代には遡上することは難しかったでしょうが、飛鳥・奈良時代において斑鳩地政学上、重要な地であることは想像に難くありません。

もちろん、奈良盆地から大阪平野へ通じる道といえば横大路がまず想起されます。

ただ、その竹内峠の東側、葛城は葛城氏→没官(正確には律令前だからこんな言い方はしないけど)→蘇我氏と領有が移っており、また蘇我氏は葛城氏の縁故でもあるとされているので、政治的対立のある者やビビりの人間は通りたくなかったかもしれません。

そのため、現八尾市に勢力をかつて持っていた物部氏の縁故者だけでなく、面倒に巻き込まれたくない人は大和川沿いの竜田越えを利用することも多かったのではないでしょうか。

そして、斑鳩が王族領ならば、難波宮四天王寺法隆寺コースは私のようなゴマすり人間のご挨拶巡りやご機嫌取り巡りには打ってつけです。

・・・もちろん、仏教を用いた支配の正当性、飛鳥権力の超越性を建築によって演出するのに最適解です。

と、長々と厩戸皇子聖徳太子)が斑鳩の地に法隆寺を建立した理由を「サービス、サービス」しすぎました。

ところで、ここが盆地に降った水の出口ということは当然ながら洪水の常襲地帯でもありそうです。

大和川の近くは氾濫で水に満たされることもたびたびあったでしょうし、法隆寺がお手本のように山を背に南面しているのは様々な理由がまさにハマった結果でしょう。

そして、飛鳥時代の人々が見ていたであろう景観が「美しく残っている」のは尊いことです。

さてさて、ここから現存する世界最古の木造建築、中門です。

桁行4間、梁行3間という珍しい平面。そのため、ど真ん中が柱になっています。

初詣でかなんかで混むときは一方通行にできてちょうどいいね(文化財保護のため通行禁止です)。

上層の逓減が大きく、屋根の軒の出も大きいです。上層の柱が下層の柱の中心に来ているため、この写真でも幾何学的にシンプルな安定性を感じます。

ところで、この柱は芯去り材だそうです。

芯去りで円柱を取る場合には、どんなに歩留まりよく取れるとしても必要な直径の2.41倍の直径を持つ原木が必要です(芯も歪んでいることが多いし、まず無理だけど)。

ということはこの柱が直系60㎝だとするとおよそ150㎝の末口の丸太が欲しい・・・。

よく言われることですが、古代には有望な資源が多かったんだなぁ~。

でも古代も奈良時代になると結構、枯渇していたんですよね。文化・文明の希求と自然の許容はいつの時代も大きく異なるようで。

でもこの柱、随分と捻じれている木材を使っています。

写真はありませんが、木の繊維、またそれに沿った割れが斜行しているのです。

繊維が斜行しているといくつか問題点があります。

まず、丸太を矢割りして製材(当時は縦挽き鋸がない)するときに、繊維のままに割れていくので捻じれたパスタ(「フジッリ」と言うようだ)のようになってしまいます。

・・・???、どうやって製材したんだろう?

それとも、通し柱ではないので約4m(?)と短いから横挽き鋸で切ったのだろうか?

ただ、一つ言えることは、繊維が捻じれている材料は垂木など断面の小さな部材にできませんから、「消去法で柱になった」と、「いい材料だから柱にした」と見る現代一般人とは反対の考えで木取りしたのかもしれません。

そして、捻じれのある材料を使う場合、芯持ちであればあまり問題ないかもしれませんが、芯去り材だと斜め荷重に対して耐久力が一定でなく、せん断されやすい方向ができてしまいます。

同様に、芯去りで使った場合、内部応力の開放も一定ではなく、乾燥その他で仕口(枘穴や頭貫の通り)の角度がだんだんと変わっていってしまうので不都合ではないでしょうか。

来る日も来る日も手道具で木を加工していた古代人がそこまで無理解であったとも思われず、ちょっと理解できないところ。

・・・なんとも不思議な感じです。

法隆寺と言えば五重塔

お約束ですね。飛鳥時代のまま(ではないけど)、威風堂々です。

一番下の裳階がちょっと興ざめですが、一軒・角垂木も伸びやかです。

写真がへたくそ過ぎてわかったものではありませんが、組物で支えた丸桁(〇じゃねえけど)と平行垂木は特徴的です(「法隆寺五重塔 丸桁」で検索したら面白そうな論文が出てきたけど、ちょっと読む時間がない。不精です)。

塔の内部には釈迦の入滅その他を表現したねんどろいど・・・じゃなかった、塑像が安置されています(こちらも国宝指定、そして仏像はどこも撮影禁止)。

しかし、まあ、1300年前の塑像が残っているのはすごいですね。

塑像は衝撃に弱いので、大きな地震でも来て倒れたら修復できなくなるのに、現存しているなんて。

そして金堂↓

こちらも裳階が邪魔な感じがしますが、それを意識しなければ下層と上層の対比は中門と同じような感じがします。

あっ、この「中門と同じような」というのは対比バランスのことで間数ではありません。

それにしても、法隆寺に来るまでに唐招提寺薬師寺を見てきたので、いささかこじんまりとした印象を受けます。同じ寺院でも古代と一括りにしてはいけないのですね。

他の金堂と趣きが異なると言えば屋根。入母屋造りで続かない勾配(上方が直線に近く、下方の反りがきつい)は2次・3次曲線を見慣れた私たちには不自然に映ります。

むしろ錣葺き屋根に近い線の断絶があります(玉虫厨子については忘れていなければ後述)。

有名な高欄の卍崩しと人字形割束。ただ、修復されているためきれい過ぎる趣きしかありません。

よく知られているように手前の隅柱は元禄時代のもの。

「あり」という人と「なし」という人がいますが、私は「なし」派。

五重塔の五層目もそうだけど、雰囲気が全く違う。補強のためとはいえ簡素清貧なこの時代の建築には「オラオラ」が強すぎる…。

ちなみに、文化財防火デーは毎年1月26日です。

こちらは大講堂。平安中期だそうです。同じく装飾を感じさせない落ち着いた外観です。

現在、回廊は鐘楼・経堂を取り込んで大講堂につながっていますが、元は閉じた長方形でした。

やっぱり雨にあたらない方がよかったのかな。

写真を撮り損ねましたが、この回廊の連子窓がとてもよかったです。

というのも、飛鳥時代からのものかはわかりませんが、連子子が風化しており、特に中央あたりが極端に細くなっているのです。

見るからに弱そうですぐに折れてしまいそうなのですが、そこにこの寺が過ごしてきた時を映されているようで、その影と合わせて感慨にふけることができます。

回廊を東に出ると東室。手前の聖霊院は後世の改築によるものなので板張りで聖徳太子が祀られています。

写真左が妻室。先の東室と合わせて僧房だったそうです。

それぞれ全室同じ間取りのアパートメント。やっぱり角部屋が人気だったのかな。

多くの僧侶が飛鳥時代から連綿とここと大講堂とを行き来したのでしょうか。

写真右は綱封蔵。土壁を除いて正倉院に似た造りですね。

こちら食堂(左)と細殿(右)。

妻側の壁面で梁などを確認したいが木が邪魔で食堂が見て取れない。手元の図集は同じく木が邪魔で細殿が見て取れない。

ただ、どちらも内部では叉首組などのシンプル設計だそうです。

東大門。ここまで来て、ようやく西伽藍も終わりです。

奈良時代の建築とあり、こちらは「真ん中に柱」とはしなかったようで・・・。

よく見られる八脚門ですが、屋根が2つの棟の上に大屋根をかけ渡しています(三棟造)。

写真はありません。・・・大事なところは写真撮れよぉ~。

言い訳をすると、ツアーで回っているために現地で図集を広げることができず、細部を確認する余裕がないのです。

おっと、やっぱりだいぶ長くなってきたのでまた稿を改めます。

さらにもう一回、「いまふたたびの奈良へ」。