山乃井木工房:岩井雄介のいま何作ってましたっけ

京都丹波(京丹波町)の山村で木工をするあるつくり手の備忘録

ぶらり奈良の旅 ~その4~

前回、「いま、ふたたびの奈良へ」と締めくくりましたが、今は「いざいざ奈良」のようです。

こちとら関西在住でいっ。J〇東海さまのことなんか知らねぇやいっ(関西でもCM流れているのかしら?)

・・・法隆寺散策が続いて、東院。

東院は斑鳩宮の跡地に建立されました。

そう、かつてこの地にあった斑鳩宮は、入鹿率いる兵で山背大兄王、つまり上宮王家と共に滅ぼされたのです。

私が受けた昔の歴史の授業だと、「この乱は蘇我一族による横暴の事例として挙げられ、いわゆる天皇復権を目指す2年後の大化の改新(現在は「乙巳の変」)に繋がっていく」とされていました。

しかし、今では、推古年間の大王(天皇)・厩戸皇子蘇我馬子の安定していた治世が崩れ、その後から続く王位と権力を巡る長い争い(孝徳天皇まで、もしくは最終的に壬申の乱か)の一環であったとされているようです。

ちなみに、その蘇我氏ですが、近年研究が進んでいるらしく、特に5年ほど前には立て続けに新書が出されているけど・・・もちろん、読んでいません。勉強していません。

相変わらず天気がいい日だったのね。はい、夢殿↓

遥か彼方まで続くような青空を、夢殿がその甍で受け止めています(ちなみに、創建は天平であるらしい)。

図集に奈良時代の復原断面図が載っていました。

う~ん、当時は組物が少なく内部の虹梁も一重だったのですね。何よりも屋根が低く現在よりもだいぶ平たい。

雨対策のためにこのような勾配になったのでしょうが、確かに今の方が納まりもいいし、切れがある。

屋根の上、青くなった宝珠はウニのよう・・・じゃなかった、仏法の功徳があまねく広がる様を表しています。

それにしても八角形は安定しているなぁ~。遶仏(にょうぶつ)や繞堂(にょうどう)というらしいですが、仏様の周りもぐるぐる回りやすそうです。

・・・と思ったら、八角円堂は当時、正確には人を祀るための建物だそうです。

基壇と建物のバランスもいいですねぇ。一辺が短いからでしょうか、戸や窓が大きく見えます。

次は絵殿と舎利殿

こちらは鎌倉時代。なのでもちろん板張り。

でも他の建物とそれほど趣を異にするわけではありません。

そして伝法堂。東院伽藍の講堂ですが、壁ばかりです。中で講義を聴きながら黒板を見るには目が悪くなりそう・・・。

桁行7間ですが、もとは5間のものを移築(もと橘夫人宅)したそうで板張りです。

丸柱でもないですし、軒の出も少ないので、他の建物よりも荘厳を感じません。

ただ、切妻造にしては力強い屋根です。

ここでの記述の順番が前後しましたが、東院に向かう前には大宝蔵院も見学しました。

大宝蔵院には法隆寺が所蔵する数多くの国宝、重要文化財が保管・展示されています。

しかし、何と言っても玉虫厨子(もちろん仏像も素晴らしいのですよ、でも知識がない…)。

私は、玉虫厨子はてっきり総ヒノキだと思っていたのですが、一部にクスも使われている(請花・下花)そうです。

クスはその匂いのため、仏様の香しさに重ねて仏像の材料にするというのはよく知られた話です。

飛鳥時代の人もクスの芳香にあの世を思っていたのでしょうか。

錣葺屋根はもちろん注目です。屋根のアールは直線的ですが、大屋根と庇には繋がりがあるように感じれられ(実際に繋がっているわけではなくて、延長線の交点が接線に近いの意)、よくある入母屋造に近いのですがシンプルな感じを受けます。

玉虫の翅を貼り付けていた当時は、極彩色の子の厨子を如何なる人々が如何に愛用していたのでしょうか。

もう一つ、見るのを楽しみにしていたのが百万塔。

ろくろによる木製の塔内に極小の経典を詰めて古代の有力な寺に安置したもの。それもたーくさん、無数に。

仲麻呂恵美押勝)の乱を鎮めた称徳天皇孝謙天皇重祚)が鎮護国家実現のために奉納しました。

称徳天皇といえば、父は彷徨の聖武天皇、母は藤原四子と異母きょうだいの光明子

百万塔陀羅尼経は父の仏教国家建設の続きだったのでしょうか、それとも自らの系譜(天武系)が続かなくなることへの葬送だったのでしょうか。

全ての見学を終えると、みんなで南大門に戻りました。・・・ツアーなもので。

ほんとは解散の後、法起寺法輪寺を見に行きたかったのです。

でも、さすがに諸先輩の中、一人若造が離脱するわけにはいかないので予定変更。

電車で奈良駅まで行って、興福寺を見ることにしました。日が暮れるまでに急げ~。

ということで、さらに続く。