山乃井木工房:岩井雄介のいま何作ってましたっけ

京都丹波(京丹波町)の山村で木工をするあるつくり手の備忘録

ぶらりちょっと坂本の旅 ~その2~

坂本をちょっと旅したのはもう2ヶ月以上も前になってしまいました。

いやはや、全く遅筆で・・・。

ブログを書くときには事実と齟齬があるといけないので、ネット上ではあるけれど、一応調べながら書いているのです。

そして、漢字や熟語を確認することもしています、文章をより良くために。だって、僕の頭、パンくず並みの語彙しか出てこないんだもん。

なので、100文字打つのにも10分くらいかかってしまうこともしばしば、ラフラフ。

特に今回は予習をあまりしていなかったので、タイプするときになって「こんなところだったのかぁ~」「こんな建物があったのかぁ~」と感心しながら書き進めています。

さらには、「知ってたらもっとしっかりと観察していたよ」なんてことも…。

人間、いつまでたっても備えあれば憂いなし、災害には非常持出袋、勉強しないで受ける定期テストは無駄死に、といったところでしょうか。

坂本ケーブル坂本駅から日吉大社までは徒歩5分。ほんとすぐお隣です。

というか、日吉東照宮は駅から見ると日吉大社とは反対側にあるから、坂本駅日吉大社の広い意味での境域の中、と言うこともできるかもしれません。

ただ駅から日吉大社までの歩道が狭くて・・・。

延暦寺からの日吉大社(それとも、歴史的には日吉大社からの延暦寺?)という日本史的名所旧跡をもうちょっと整備してほしい。

・・・でも、やっぱり三連休なのに観光客が少ない。インバウンドだけじゃなく、日本人も旅行ブームではなかったのかい?

駅からの日吉大社だと橋を一つ忘れて行ってしまうので、実際の道のりとは前後しますが、二宮橋から見ていきましょう。

日吉大社には3つの石橋があり、いずれも江戸初期、寛文期に造られたとされ、国指定重要文化財です。

この二宮橋は大宮川の一番下流に架かっていますが、日吉大社のホームページ(https://hiyoshitaisha.jp)とそのブログ(https://amebo.jp/hiyoshitaisha/entry-12742402392.html)によりますと、山王祭の時にしか使用されないそうです。

橋の両側には注連縄とバリケードがされて渡れなくなっていました。なんでも渡ろうとする車があるそうで、通行止めにしたのだとか。

「このはしわたるべからず」では済まされないようです。

がっちりとした壁高欄、橋板の作る大きな反り、一方で真一文字に太い橋桁、どれも力強いです。

写真には入っていませんが、両端に擬宝珠も載っています。

この橋の反りが横桁(この場合は梁って言わないんだね)の厚みによって出されているのも面白く感じます。

橋桁がこれほど太い部材でできているので、橋板を反らさなくても構造上の問題はなさそうです(個人の意見・感想であり、専門家によるものではありません)。

それでも、このように強い反りを造り出したのは、当時の反りに対する認識を表しているかと思います。

次は走井橋↓

欄干がないために高所恐怖症の私は真ん中を歩きますが、私のような平民身分が渡るのに相応しい橋です。

この橋は次の大宮橋と並んで配されているわけですが、階段を下りて渡らなければならず、その意味でも格の違いが現れています。

走井橋でまず指摘したいのはバランスの良さ。橋板・桁・脚の各部材の大きさの兼ね合い、全体の高さと中央の飛ばした距離、一見、現代の建築物かと見間違うほどです。

欄干がないので橋板の曲面の魅力を楽しめ、その反りによって大河に架かる沈下橋のように質素や貧弱に感じることはなく、加えて1ヶ所3本の方形断面の橋脚が力強く感じます。

シンプルな外観ですが、その基に洗練された感性が内在しており、この地に祀られている神々に対する真摯な心象を推察せずにはいられません。

ただ、この橋はちょっと小さすぎるので、次に挙げる大宮橋が全くの「貴賓橋」として機能していたとは考えづらいんじゃないかなあと思います。

日吉神社の総本社でもあり、京都・東海道に近いことを勘案すると、元禄期以降の参拝者はとても多かったと思われます。

この橋の上で、みんなが「押すなよ、押すなよ」している光景はちょっと現実的じゃない気がする・・・。

木橋の時や作られた当初は別として、この走井橋は大宮橋が神事や貴人の通行などで使えないときのスペア的な位置づけだったんじゃなかろうか(ちなみに、山王祭の時にはこの走井橋も神事に使用されるそうです)。

最後は大宮橋↓

先の走井橋から写真を撮りました。

走井橋とは並んでいるわけですが、高欄、横桁、橋桁、橋脚と、同じ幅の川に架かっているのに随分と技巧が尽くされ、重層感を感じます。

ただ、各部材がそれほど太く・厚くはないので、野暮ったい感じは受けません。

特に欄干の窓はその形状や大きさ、間隔のどれを考えても石造りにしては軽妙で、橋板より上を重たい印象にはしていません。

構造的には二宮橋とは橋脚が丸柱であることが共通し、また橋の反りが橋桁で出されていることが異なります。

他の二つの橋と比べて反りが抑えられているのは牛車や馬などでも渡ることを想定したからでしょうか。

丸柱で貫を用いていることには注目してよさそうです。古来より丸柱は格を引き上げるものですが、貫の多用は大仏様に代表されるようにだいぶ歴史が下ります。

そのため、「古風を重んじる神社建築」において、丸柱に貫を通すのは慎重になるんじゃないかなあと思います(まあ、貫の利用は神社にもよく見られるんだけど。この橋の位置づけを考えると、殊更に見せているのはね)。

先の二つの橋とは異なり、楼門同様、どことなく中国らしい豪華な雰囲気が出ているのはそのためかもしれません(欄干の窓にも言えることだけどね)。

先述の通り、これら三つの橋とも秀吉時代(実際に秀吉の寄進だったかはわからんけど)には木製であったものです。

その時の意匠がどれほど江戸時代の架け替えに引き継がれたかはわかりませんが、いずれにしても相当に技術と贅とを尽くした、当時の深い篤信の跡を見ることができます。

また、この地は野面積が代表的な石工集団、穴太衆の所在地でもありました。

日吉三橋と穴太衆の関係は諸々のところで指摘されていますが、貴賤を問わず多くの人々が集うところだったことを考えると、広報戦略や展示場として目指したもの、もしくは機能したものであったかもしれません。

「うわっ、やばくね。まじ石橋、っぱね~」

みたいな大名、諸藩家老が新規導入してくれたらよいですね。

そんな風に考えると、それぞれの橋も一層見え方が変わってきます。

フル規格の大宮橋、平橋としてもカスタマイズできる二宮橋、庭園や城の堀に架けるのに相応しい走井橋。

それぞれのモデルはオプションも付けることができます。また、オーダーメイドにもお応えします。

・・・まるで葬式やさんの祭壇のカタログを見ているみたいです。

ところで、橋の文化財は他の建築に比べて少ないですね。

川は災害の起点であり流失することが多く、また生活の重要インフラである橋は交通機能の改善ための更新も行われることが要因でしょう。

川は共同体の境界だったり、また無縁の場所だったりするわけですが、そこに架かる橋はまた行動圏や商圏の結節点だったり、交通の頸木かつ繁栄の場所だったりしますね。

古来から無数の橋梁が架けられてきたことは容易に言葉には出すことができますが、その実物を見たり、具体的に想像することができないのが残念です。

大宮橋もしくは走井橋を渡るとしばらく上り坂が続き、大きな鳥居が現れます。

神仏分離令以前は神仏習合によって比叡山延暦寺の影響を強く受けており、山王権現として位置づけられていきます。

てっぺんに破風、三角を載せた山王鳥居はその表れなのだとか。

でも、日吉大社神仏分離令後の廃仏毀釈で先駆的かつ象徴的な舞台となったんだよね(https://ja.wikipedia.org/wiki/日吉大社←いつも通り参照がウィキペディアですみません。不勉強です)。

その時は、この三角どうしたのかな?

京の鬼門である比叡山を鎮守するという意味で残していたのかな??

もしそうだとすると、国家神道という理念で行動したというわけではなかったと思っていいのかな???

それとも、この三角は一時期廃されていたのかなあ。

戦前から三角があったにしろ、戦後に三角が復活したにしろ、思想史を考える上で有益でありそうです。想像が広がりますね。

・・・ネットでは見つかりませんでしたが、きちんと探せば文献ありそう…。調べていなくてすみません。

奥に進んでいくと、とても立派な摂社がたくさん右手に並んでいますが、まずは大宮、大比叡とも呼ばれる西本宮へ。

西本宮楼門です。

この楼門は本殿、拝殿と同じく比叡山焼討の後、天正十四年(1586年)の再建と伝えられます(文化庁『国指定文化財等データベース』https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/102/1358)。

入口に厄払いの案内看板があって、自分が前厄の年だとわかりました。

時間がないのでお祓いは受けられませんが、どうぞ見逃してください。

三手先に二重垂木ともちろん格式は高いのですが、どこどなくこじんまり。

ついこの間、奈良の古刹や平安宮朱雀門を見たばかりだからでしょうか。

下層の柱配置が狭いので、屋根のみならず、高欄を持つ上層部も大きく見えます。

写真の撮り方もあったでしょうが、気持ち不安定を感じる…。

この西本宮は板塀(内側のものを「瑞垣」というらしい。⇔「玉垣」)がぐるりと本殿・拝殿と授与所を取り囲んでいます。境内の中の境内。

西本宮楼門を入ると正面が西本宮拝殿↓

立派な拝殿です。まあ、楼門側からの写真なのでこちらが背面ですが。

屋根は入母屋。三間四方で軒の出が大きく、欄干が回っています。

バランスがいいですね。西本宮の本殿と拝殿は天正期の建築ということで、木割から細部まで意匠として完成されている感があります。

妻飾が大きく、またその狐格子が広くため、少し冗長に見える気がしますが、それは現代人の感覚でしょう。

室町末期や江戸のごく初期には示威あるものに見えたのかもしれません。

建物み導かれるように中に進みたくなります、・・・が、玉串を捧げて前厄のお祓いをすればいいですけどそういうわけではないので、手前から見上げる形で中を確認します。

折上格天井、ただし上がっているのは中央の一間です。

もちろん天井の形式としては格の高いものですが、結婚式場を見慣れた現代人にとってはなんだか不思議な感じがします。

梁・桁が通っているので、3×3の真ん中このスペースを折り上げるのは構造的には合理的なのですが、ちょっと狭い感じが…。

貴人一人の参拝はこれで結構でしょう。

しかし、安土桃山時代の参拝事情は知ったことではないものの、夫婦だったり、親子だったり、連れション・・・じゃなかった、対等な友人とのご参拝だったりするときはちと困ります(前近代では並ぶことはなかったのかな?)。

後でも書きますが、そもそも日吉大社の建築はどれも「合理的」にできすぎているきらいがあります。

この拝殿だって、〇×ゲームをやりたくなるような3×3。

宇治上神社を挙げるまでもなく、拝殿は横に長かったり、手前・奥に長かったりといろいろできるはず。

なのに、極めて合理的。それも経済合理的と言ってもいいようなこの構造を選択しています。

そんなことはさて置き、西本宮本殿↓

 

日吉神社の中でここだけは正面から参拝できませんでした。

言わずと知れた日吉造(ひえづくり)。背面がぶった切られています(←言い方には気を付けましょう)。

すなわち、桁間三間、梁間二間の内陣に三面庇、縁を回しています。そして、屋根は一見すると入母屋造ですが、背面は二方向に稜線を出して軒が高くなっています(最も大事なところの写真を撮っていないっ)。

もともと平面がそれほど大きくなく、軒までは縦方向にも伸張性をそれほど感じる意匠ではないので、正面から見るとこじんまりした感を抱きます。

しかし、写真のように、地面から床、床から軒、軒から屋根の最頂部が見かけ上、等しくなっている(実際は2:3:4くらいかな)ため、非常に安定して見えます。

ここでちょっと関係のない話で恐縮ですが、うちのムラの神社も日吉神社でこちらの末社です。

小さな村の神社なので、今はもう専属の神主さんがいるわけではありません。それでも本家のこちら様と「似たような」建物となっております。

さて、西本宮本殿の話に戻りましょう。

やはり、拝所が付属する本殿は屋根が美しいですね。背面の特殊な屋根構造にも言えることですが、単純な寄棟や入母屋と比べて伏図上の形が複雑になるほどに、各所の納まりが難しくなります。

3次元の表現であるところの屋根はそのような納まりをいかに自然に見せるか、特に神社建築の場合は麗しくと言ってもいいでしょう、そう、端正にして且つ麗しく見せるかが重要です。

その意味では、この屋根はなかなか見どころがありそうです。

また、背面の意匠について。これは個人的な見方ですが、背面の軒や床が上がっているのはその先にある「神」への敬意とも受け取れます。

神が山だとしたら、目線は自然と上方になります。

屋根を四方庇にしてしまうことは単純に本殿を閉鎖的な空間にしてしまいます。

祈りの方向を考えるならば、日吉造は極めて理にかなっているのではないでしょうか。

ただ、この仮説に関しては破綻があります。そうです、建築で言うところの背面、信仰で言うところの前方の山への畏敬であるとしたら、摂社や末社はその日吉造を踏襲しなくともよいはずです。

勧請によって分霊を遷してくるならばその信仰対象は本社の御霊のはずであり、摂社・末社の背面を開くのは逆に理にかなわないことになりそうです。

「似せること」に重きを置いた様式・形式に依拠したとも再反論できないわけではないでしょうが、結局は決め手に欠きます。

・・・と、いろいろ考えると楽しいですね。建築の意匠をどう捉えるかというのもやはり芸術鑑賞であるわけで、このような自由な解釈を抱擁してくれます。

西本宮本殿を参拝、鑑賞したところで、次はお隣の宇佐宮。

西本宮エリアには奥から西本宮、宇佐宮、白山宮と三つの本殿、拝殿が同じ方角を向いて並んでいます。

そしてこちら↓、宇佐宮の拝殿です。

・・・西本宮の拝殿と見分けがつかないじゃないかって?

ほんと、そう思います。かくゆう私も写真を整理しているとき、どれがどれだかわからなくなってしまいました。

もう、西本宮・宇佐宮・白山宮・東本宮・樹下宮の本殿・拝殿がみんな判で押したようにそっくりなのです。

ほとんど、間違い探しの次元です(これは失礼…)。

特に拝殿はそのシンプルな構造もあって、ユニット工法かプレハブ工法で建てたんじゃないかなと思えるほどです(これはさらに失礼…)。

賤ヶ岳の戦いの後、畿内にようやく平和が訪れたことによる、喫緊の復興需要の影響でしょうか。

よもや、秀吉の子飼いの家臣が競い合って、寄ってたかって同時期にそれぞれ造ったんじゃないかなと邪推してしまいます。

まあ、それはそれで想像すると面白いのですがね。

宇佐宮本殿

う~ん、ほとんど同じでコメントもしようがない・・・。

ちょっと関係ない話になってしまいますが、私は宇佐神宮のことをよく知りませんでした。

「宇佐神社ってそんなに見ないし、メッセンジャー和気清麻呂が行ったところくらいしか印象がないな。マイナーだなあ」と思っていました。

・・・無学です、ほんとあほです。

この記事を書くために、いつものようにウィキ〇ディアで調べたら、宇佐神宮八幡宮の総本社だったんですね。

知らなかったでは済まされないほどに愚かです。

八幡宮の存在を考えると、ここ日吉大社に摂社が開かれているのも理解できますし、境内の「良い位置」に鎮座しているのも納得できます。

・・・はい、私の恥ずかしい話でした。

この宇佐宮の近くになぜかちっちゃい正倉がありました↓

ただし、立て看板の何もないので、これがどういった経緯で、どういった施設なのかわかりません。

何か説明をお願いします。さもないと、このように「何か貴重なものではないだろうか」と、おじさんが嬉々として写真を撮ってしまうので困りもの。

文化財表示がないということは、つい最近の建設だということでしょうが、それだったらそれで何か案内が欲しいところです。

一見したところ、古式にのっとるのならば上部は木鼻なしの寄棟屋根である方が望ましいような気もします(屋根はあえて「神社風」を取り入れたということでしょう。木鼻・・・?)が、丁寧に作ってあるようですし、説明がないのはもったいない。

わざわざこんなところに古代風物置を作るなんて、中には何を収めているのかな?

校外学習に来た小学生でなくとも、案内があれば勉強できそうなのになあ。

白山宮を経て(何度も失礼だけど、同じ意匠過ぎて写真も撮らなかった)、東本宮に向かう道中には神輿収蔵庫があります。

日吉大社の神輿に弓を引いてはいけません。時の関白は呪い殺され、その息子は苦労することになりました。

・・・あ、ここに収められている神輿は再興以来のもののようです。

同じく、道中には金大巌に向かう分かれ道があります。

時間があれば、上まで登って三宮と牛尾宮を見てみたいところでした。

どちらも16世紀末の懸造の建築であり(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/懸造)、その架構造が近くで見られるようで、近隣の石山寺醍醐寺、もちろん清水寺と比較検討するのも面白そうです。

ただ蛇足ですが、超素人的個人的意見で、これらに対して投入堂三佛寺)は「懸造に該当しないのではないか?」と思います。

素晴らしい建築物であることは間違いないのですが、「懸」ではあるが「造」とは言えないような気がするのです。

不均衡な地形、すなわち接地面により起因する課題、もしくはそれによって発生が顕著になる諸課題(地震、風害等による破壊力の増大)を、軸組構造の格子的展開(ラーメン)の長所により建物内部で収斂させる(軋みや捻じれを許容し、柔軟性やレジリエンスを旨とする)ことで解決をするのが「懸造」と理解しています。

剛性で対応するレンガ造や大壁工法、真壁工法とは発想を異としていると思うわけです。

その観点では、投入堂は共通性を見出せないような・・・。まあ、考え方の違いかな。

大阪湾の巨大なルーレット建築も、いっそ振り切って海に張り出す形で半永久的に作ったら、自然への挑戦と融和という形でこれらの文化財と共に、後世に残る建築になったかもしれませんね(埋立地地盤沈下を考慮しなくてはいけないので無理だけど)。

西本宮と同じく、東本宮の建物配置も楼門から拝殿、本殿へと直線で連なっています。

ちょっと暗くなってしまってわかりづらくなっていますが、楼門は西と東で違いがないと言っても過言ではありません。

ただ、瑞垣の形状とそれが内包する建物が異なります。

というのも、東本宮の楼門の「内側」には近くの樹下神社を勧進した(で本当にいいのかな?)樹下宮があるのです。

そして、こちらが樹下宮拝殿。

もう、そっくりで(以下略)。説明や感想は書きません。

そして樹下宮本殿

この樹下宮の本殿、拝殿は東本宮の楼門から拝殿に至る直線を挟む形で左右に建っています。

そのため、正面に回ることを不精したので撮った写真が横からになっているわけです。

樹下宮は比良山信仰とも結びついているようですが、どういう神社でどういう信仰対象なのか正直わかりません。

しかし、参道をまたぐように配されているというのは珍しく、「こんなことが許されるんだぁ」という感想です。

これはこの2月に、一部界隈で話題となった「交わっているわけではない2本の直線はねじれの状態にある」ということで三次元世界の展開なのかもしれません。

因数分解で止まってしまった私には数学的理解ができないところですが、次元の異なる信仰という観念(神様の「上下」という意味ではないことは確認しておきます)があることは優に想像できます。

もしかして、この東本宮拝殿と奥の本殿が基壇と言ってもいいような一段高いところに据えられているのも、高さ方向の格別を意識したからでしょうか。

このため、写真のように西本宮よりもぱっと見、格式が高いように見えます。

東本宮本殿です。

西本宮と全く同じ。明治期に祭神を入れ替えても何ら問題なかったのも頷けます。

木工の集まりの時間が迫ってきたので、この東本宮を見て日吉大社を後にしました。

日吉大社にはケーブル坂本駅をはさんで東照宮がありますが、こちらは事前の勉強不足によって行く意識がありませんでした(・・・恥ずかしい)。

日吉大社東照宮は権現造のもっとも早い形とのことです。

日光へは小学校の修学旅行以来行っていないのでそちらとは比べられないのですが、この機会に是非とも訪ねておくべきでした。

また、文中で触れていますが、中近世に限らず、職人集団の活動がどのように展開したのかについては近年、注目が集まっているところかと思います。

特に、穴太衆は年初の地震金沢城の当時造られた石垣がほぼ無傷だったこともあり、多くの人の記憶に新しいところでした。

彼ら穴太衆の仕事(もしくはそうとされている仕事)は坂本の街中にも多く残っているようです。こちらも見ておくべきでした。

さらに、少し湖西地域を北に足を延ばすと、中世史研究では誰もが知る安曇川や饗庭があります。

アホい私は「安曇川」や「饗庭」の読み方をつい最近まで知らなくて・・・そんなことはさて置いて、土地に根ざした研究というのは書籍文献だけで知るだけではなく、実際に行って地形を確認することに加えて、その土地で往時の人々の生活へ思いを巡らすことは理解への欠くべからざる要素でしょう。

全く、名所・名跡を巡るには余裕を持った事前学習や見学時間が必要ということですね。