車窓に映る晩秋の空は日が傾くのが早く、哀愁が漂うようになってきました。
日が沈まないうちに興福寺へ行かなければと、三条通りを足早に東へ進みました。
奈良公園の方から坂道を下ってくる観光客は半分以上が外国人で、インバウンドの影響を大きく感じます。
法隆寺では外国人観光客がほとんど見かけなかったことを考えると、彼・彼女たちの目的はシカなのかな???
寺社仏閣めぐりというのは外国旅行の一丁目一番地ではないのでしょうか。
ところで、この興福寺・東大寺へ向かう坂道、地図で見るよりも、いろいろな本で読むよりも随分と急なのですね。
興福寺自体が、その伽藍建設のために地盤改良を丁寧にやったというのは有名な話ですが、ほんとにこの地は平城京を見渡すような高さなのですね。
外京というよりも、こちら(春日山から続く舌状台地)が権威の象徴であるような・・・。
桓武天皇が平城京から都を移したのも仏教勢力から逃れることが一因とされますが、それはもはや日常レベルの威圧をだったのかもしれません。
それが故に、長岡京では逆に宮を台地上に建設したと考えても、あながち理解できないことではないでしょう(もちろん、長岡京は水利の重要地であり、建都上からも有利だったことなど様々な要因があると思う)。
背後で奈良市内を見下ろすようになるころ、左手に現れるのが興福寺南大門跡。
あまりに外国人観光客が多く、階段で座っている人もいたために写真は撮れませんでしたが、この南大門跡の階段、なんでこんなに勾配がきついの?
絶対にひと月に数人はケガするって。
ここには往時を偲ぶ礎石があり、その大きさを想像することができます。
でも建てるとき、こんな階段・基壇の上じゃあ、工事たいへんだっただろうなぁ~。
そして、その南大門跡地から真北に見えるのが中金堂(手前の礎石は中門跡)↓
今の携帯電話(スマホ)のカメラ機能ってすごいね。薄暗くなってきたのに露光時間が短くって、肉眼よりも色味が鮮やかに撮れます。
この建物は2018年の再建ですが、身舎の柱はアフリカケヤキで、その様子は『N〇Kスペシャル』(だったかな?)でも放送されました。そのため、ご存じの方も多いと思います。
それにしても、威厳のある金堂です。拝観時間が終わってしまって、内部を見ることができないのが残念です。
興福寺は言うまでもなく藤原氏の氏寺。奈良時代から有力寺院で、平安時代には南都北嶺と呼ばれるほど威勢を誇るに至ります。
ただ、興福寺自体は火災が多く、たびたび灰燼に帰しています。
よく知られる治承の兵火(南都焼討、1180年)はもはや4回目の火災であるそうな・・・。
ついでに、興福寺と東大寺の伽藍を炎火に巻き込んだ重衡は後に捕虜になり、鎌倉に送られた後、南都に引き渡されることとなります。
まあ、南都勢力にしてみれば仏敵ですからね。
でも、重衡ってそんなに悪い人じゃないみたいなんだけどなぁ。『吾妻鏡』では鎌倉でとても雅なことになっているし・・・。
それはさておき、興福寺見学です。興福寺は奈良公園の一部として立ち入りが自由なので、たまに「はぐれシカ」もふらふら見学をしています。
南円堂、1789年の再建。おお、フランス革命の年。
興福寺に限らず、江戸時代には摂関家の力はそれほどではなく、また朝廷の力による再建も難しくなりました。
立柱から50年近くも経って完成しているのはそのためのようです。
徳川家の力を借りられればいい(法隆寺における桂昌院(綱吉の母))のですが、そうでない場合、民衆に頼るという方法もありました。
元禄以降、江戸時代の民衆(必ずしも都市住民に限らない)は旅行好き。
これは、寺社詣という理由であれば移動が許されたことと経済的なゆとりが生まれたことによりますが、奈良もそのGoToトラベルの行先の一つでした。
唐破風による拝所が付いているのも、そのような「映えスポットにして一般うけ」「思わず投げ銭したくなる」ものを狙ったと言えるようです。
一方で北円堂↓
こちらは歴史が遡って、鎌倉時代初期の再建。氏の長者は九条兼実とその次男良経の頃。
つまり、再建にあたっては藤原氏の伝統を踏まえ、氏寺の継承者として相応しい意匠としなければなりませんでした。
そのため、当時、流行りの大仏様・禅宗様で造るのではなく、古式(奈良時代様式)と当代の両方取りをしているようです(具体的には木鼻は出ない、貫と長押の両方取り、板戸など)。
屋根は勾配がややきつめですね。いい意味で小さく納まり良く、完成度が高い印象を受けます。
北円堂の周りにも回廊があったようで、礎石があります。
それにしても、こんな重要な文化財がこんな柵でしか守られていないなんて・・・。
宗教と民衆の近さは今でも健在ということですね。その割には寺社・旧跡巡りをする人って少ないよね。
興福寺の五重塔はこれまで見てきた塔に比べて逓減が少なく長方形なイメージです↓
高い塔(現存では日本で2番目の高さ)なのに抜群の安定感があります。
関西地方では、4チャンネルの朝の番組のお天気カメラの映像でこの塔が映ることが多く、なじみ深いの五重塔。
再建は室町時代、四代義持のあたりかとされており、争乱続きだった室町幕府にしては比較的安定したころだったようです。
今年の7月から修復工事が始まり、最終的に完成するのは8年後だそう。
素屋根も来年の春にはできるようで、当分、見納めとなってしまいます。
こちら↑は東金堂。
前面吹放しは何となく、唐招提寺を思い出します。
やや縦に長い感があります。そのため、尾垂木がさらに目立ちますね。
こちらも近くまで行って現物を見たいのですが、拝観時間の終了で柵越しに写真を撮っています。
あれ、三重塔は?
・・・見忘れました。日が沈まないうちに建物の写真だけは撮っておこうと急いで回ったので…。
ということで、日没コールドのために興福寺は十分に見学できませんで、さらには拝観時間も終わってしまって内部に至っては見ることも叶いませんでした。
また機会があったら改めてこのエリアにある東大寺、元興寺、春日大社、奈良国立博物館と併せて見学したいと思います。
と、このように古刹旧跡巡りをした一日でした。
観光っていいよね。そして、そのためには予習・復習がとても大切だと改めて気が付きました。