山乃井木工房:岩井雄介のいま何作ってましたっけ

京都丹波(京丹波町)の山村で木工をするあるつくり手の備忘録

ぶらり奈良の旅 ~その1~

つい先週の・・・はずでしたが、なかなか作文が進まずに遅れてしまいましたが、11月14日火曜日に奈良に行ってきました。

全くの自発的というわけではなく、所属している会の法隆寺見学研修会だったのです。

京都に住んでいます(京都とはいえ随分と山の中、京都府であって京都市ではない。「いけずな京都人」に言わせると京都ではもちろんない)が、奈良は行ったことがありませんでした。

まさに中学の醜楽・・・じゃなかった修学旅行以来で、まあ、今回の研修参加はとてもいい機会でした。

しかし、その法隆寺最寄り駅集合が午前11時と遅かったので、合流する前にも鉄板スポットを巡ってきました。

もちろん、中学生の時よりかは幾分か大人になったので、事前学習もいくらかやりました。

 

日本建築学会編 『日本建築史図集 新訂第三版』 彰国社 2011年

佐藤信編 『古代史講義 【宮都扁】』 ちくま新書 2020年

海野聡 『日本建築史講義』 学芸出版社 2022年

海野聡 『奈良で学ぶ寺院建築入門』 集英社新書 2022年

 

は読みやすいので読んで行きました(上記書籍と各寺院HPはこのブログの参考文献でもあります)。もとより難しい論文・著作・報告書は読めません。

受けた恩と見たものはすぐに忘れてしまうので、それではブログに書いていきます。

奈良のシカ様とお会いしたのは最後だったのだけれど、トップ画像はやっぱりこれかなと思って最初に貼り付けました。

天然記念物。なので彼・彼女たちは捕獲される心配がなく、「みやこびと」ならぬ「みやこじか」は悠々自適です。

まず初めに行ったのは平城宮跡で復元された朱雀門

言わずと知れていますが朱雀門平城京内の平城宮の正面エントランス。

まず感想は・・・寒いっ。朱雀門には悪いけど、ただ寒いっ。

時刻は午前8時。家を4時半に出て、車・徒歩で最寄りのJR駅に行き、朝ぼらけの京都駅で近鉄に乗り換え、そして駅から30分弱歩いたのです。

前日の雨から空気が入れ替わって、久しぶりの肌を刺すような寒風。そしてこの門の正面には何もありません(←これは失礼。何もないのではなく復元された朱雀大路)。

・・・寒いです。

幾分頭は眠っていますが、この復元された門をしげしげと眺めます。

事前に思っていたよりも柱が細く見えます。

礎石が一回り大きくも見えるのでどうなのかなと思いますが、どうなのかな?

柱の遺構はあったのじゃろうか?

三手先・二軒は復元として堅実と拝見します。

都城としては「プロトタイプの藤原京(←結果的に)」から一線を画す本格的な帝都。そしてそのメインストリートのド正面。

当時としても粋(すい)を尽くしたのだろうことは想像できます。

二重門、やや緩めの勾配を持つ重ねられた屋根とそれぞれの階層の比較的高い軒が威圧感を与えています(平安京桓武天皇じゃないけど)。

正面は寒い、・・・じゃなかった朱雀大路で道幅74m(復元もこの幅なのかな?)。

この左右は1300年前は銀座5丁目のような土地だったのでしょう(長屋王さんのお宅はどこですか?)。

ところで、もしかすると私のような一般庶民、しかも貧乏人はここを歩けなかったかもしれません。

門だけでなく道にも貴賤の区別があるのは不思議なことではありません。

朱雀門でプチ袋小路だったとの見解もあるようですし。

私が道の端っこでたむろっていようものなら、検非違使(←これは平安時代からのようですので左右京職かな)の下っ端の使いパシリに羅城門(も通してくれないかも)の外につまみ出されるかも・・・。

この朱雀大路は200mほどで二条大路、すなわち県道1号奈良生駒線にぶつかります。

そこはもう現代都会の喧騒。ホテルもできるみたいだし、J〇shinもあるし、古の貴族たちも便利です。

寒い中をほっつき歩いて次は唐招提寺へ。

寄棟造が美しい、金堂。

言わずと知れた天平の甍ですが、建立当時は屋根が3分の1ほど低かったそうです。

創建当時は極彩色だったのでしょうが、今の様子にむしろ律宗の厳格さを感じます。

吹放しの前面一間。繋虹梁と組入天井が寒風に品格を保ちます。

でも、なぜ寺建築にはこの吹放し意匠を採る建築は少ないのじゃろう?

次は講堂↓

こちらは入母屋造。連子窓と桟唐戸の規則性が戒律に通じるような気がします。素人目線だけど(もちろん桟唐戸は後世)。

この建物、もとは朝堂院の朝集堂だったそうです。

木造建築は移築や改修ができるという好事例ですが、建物がなくなってしまって当時の役人の方は困らなかったのでしょうか?

こちらは鼓楼。

唐招提寺奈良時代のイメージが先行して、私の頭の中には事前にこの鼓楼がありませんでした。

もらったパンフレットで国宝だと知った俄かです。そして、改めてその場で図集で確認しました。

早期の大仏様が見られるようで、木材があふれんばかりに盛大です。

というか屋根大きくない?

・・・あっ、そうか、上層の欄干を守らなければいけないからですね。

「なっ、大仏様ええやろ。屋根が重くても構造計算ばっちりや」

という声が聞こえてきそうです。

礼堂および東室。もとは僧房だったそうで、今の唐招提寺は伽藍内にあまり人気(ひとけ)を感じないですが(朝一番なせいもあるかも)、往時は多くの学僧がいたことでしょう。

御影堂からその東室に下りてくる道沿いの築地壁。雰囲気がいいので思わず写真に納めました。

唐招提寺の建築とは対照的な経時感と侘しさがあるような気がします。

宝蔵と経蔵(↑むっちゃ、逆光)。言わずと知れた校倉造。正倉院正倉が有名ですが、ここが日本最古のものだそうで。

ちなみに、私が学生の時に習った「校倉造は木の膨張・収縮によって、中の湿度がある程度一定に保たれる~」というのは現在では否定されているみたいです。

歴史(学)もいろいろと変わって、私の時代の常識は今の若い人の旧説になっているのねぇ~。

「エンタシスの柱はギリシアから日本に伝わり、東西交流の~」も否定されていますし、「645年は大化の改新」ではなくて「乙巳の変」。大化の改新とはその後の政治変革を指す研究用語・・・という理解でいいのかな。

鎌倉時代は「1185年、守護・地頭の設置から」とおじさんの頭も時代に乗り遅れないように必死です。

・・・え~と、話は戻って、校倉造。じゃあ、なんで古代の人々は倉庫を校倉で、しかも至る所(宮や有力者んち、寺社や国衙郡衙)に作ったのでしょうか?

実はこの校倉造。いくつかある現存の建物を見る限り、長さ6mから10mもの真っすぐな大径材を割ったものを使っています。

当時、縦方向の製材は矢割だったので、長い直線の角ないし板材を作ることはとても難しく、また余程良い材料を贅沢使いしなければいけませんでした。

節や繊維の捻じれがあったらうまく割れんのじゃよ、やってみたことはないけど。

そうして、素人(の私)が考えた理由は二つ。

一つは、木を組んで壁を作った方が土壁に比べて地震や台風で致命的に壊れることがないから。

万が一の際に防犯上よろしかったのかなぁ。土壁でひびでも入ってきたら、なんだかダサいし、出来心湧いちゃいそう?

そしてもう一つは粋だったから。

飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の屋根を板で葺いたことが「すげー」と言われていた時代からまだ50年そこらしか経っていない(ちなみに、唐招提寺の正倉は新田部親王んちのだった)ので、「板、組んで壁作っているよ、やべー」となったのではなかろうか?

国衙郡衙の「だいじな倉庫」も校倉にすることで、権威と正当性を演出していたのでしょう。そう、倉庫というかまさに正倉。

まあ、なんというか市中銀行の勃興期にその建物が石造りや鉄筋コンクリート造りを盛んに取り入れたのと一緒じゃないでしょうか? うん、信用第一。信用は見た目が9割。

その建築材料の話。

当時の建築ではその柱材に目が行きがちですが、梁や桁はもちろん、垂木や野地板、組物その他の材料も確保しなければいけません。

数多に必要なこれらを規格を揃えて大量に準備するのは柱材同様にとてもたいへんな仕事です。

私のような貧乏人の拙宅は掘立柱・竪穴建物なのは当然として、そこで使われる木は集落近くで採取した皮付きの細い丸太だったでしょう。

しかし、きちんとした国指定の(でつくる)建物は、人が踏み入れていない山の原木を川を使って津(港)で水揚げします。

そして、柱材は丸太もしくは荒木取りで津から現場まで曳き、細かくしなければいけないのは輸送上、津の近くで製材して運んだかもしれません。

どこで作業をするにしても、思ったようには割れないのが矢割なので、とりあえず割ってみて、様子を見ながらそれぞれの用途に振り分けていったのではないでしょうか。

その目利きと木取り、木の捌きと始末は木挽きの職人技(当時は「木挽き」とは言わなかったろうけど)。

とすると、もしかすると校倉造で使う木材は「割ってみた」「どの用途に使おうかな」というときにちょうど良い規格だったのかもしれません。

また、この校倉造。とても緻密で技巧的にも意匠的にも素晴らしいものですが、他の国指定の建築物に比べて熟練の設計士を必要としないかもしれません(もちろん、わたしゃ作れないけど)。

同じパーツの組み合わせで積み上げていけます。

飛鳥や平城京という文化の中心で経験を積んだ大工関係者だったら、その地方への技術移転は複雑な設計や計算をする「技官」がいなくとも、寺社仏閣などに比べてはるかに容易だったのではないでしょうか。

そして、大規模な足場もいらないですし、数百人規模の人工(にんく)から始めなくてもよいです。

一方で、国衙郡衙で初めに造らなければいけないのはこの税を納める正倉です。

国造や郡家は「近くの羽振りが良くて偉そうなおっさん」がなるので、その居住空間の権威はまあそれ相応でいいのですが、正倉は「国」の施設という位置づけ(税務署は国の機関じゃ)なので中央集権・律令国家を下々の者たちへ感じてもらわなければいけません。

「偉そうなおっさんが住むところ」よりも早くに且つしっかりと作っておかなければならないのは明白です。

と、このように考えてくると、この正倉が校倉造なのはとても合理的な古代人の選択だったのではないでしょうか。

「やっぱりアゼクラ。1000年経っても、だいじょうぶ~」

・・・と、ここまで古代ロマンに思いを馳せて唐招提寺をあとにしました。

ところで、仏像に関する記述がないのは事前に全然調べてなくて、且つ当人の関心もほとんどないためです。

世の中の仏女の皆さんごめんなさい。

次は南に下がって薬師寺です。

まだ9時を過ぎたばかりの住宅街を歩きながら(観光地の周辺にも普通に生活がある。オーバーツーリズムが叫ばれている昨今に、観光客がまた一人ほっつき歩いてすみません)、ちょっと考える。

薬師寺唐招提寺の真南なんだよなぁ。唐招提寺を作るとき、その辺のところは考えなかったのだろうか」と。

いやいや、6回も渡海を試みていらっしゃったのだもの、急いで寺作んなきゃいけないし、空いている土地が他になかったのかな?

当時、平城宮以外の城内は案外、民間の土地(使用権)取引がなされていたみたいだし。

でも、北にある寺が大きな塔でも作って、南にある寺の南大門から金堂越しにあっちの塔が見えたらまずかったんじゃないの?

それとも、後からできた寺は塔を作らないことでも誓約したのかな?

そんな馬鹿なことを考えていないで、薬師寺を参拝しましょう。

・・・と、あまりにこの稿が長くなってきたので、薬師寺からは稿を改めます。